なんでこの思考がダメなのか、その理由を私に提示してくる思考回路が溶け出しているように思う。なんでだめなのか、よりもそれを止める私が居ないくなっている。

誰かに助けて、という声すら出ない。声帯がそのために運動しようとはしない。

私は誰かとは生きられない。なぜかはわからないけど、絶対に無理だ、不可能だという確信だけが強く強く感じられる。どうしても無理、絶対に無理。

誰かに苦しいのを同情してほしいわけでもないし、寄り添ってほしいわけでもない、理解してほしいわけでもない。到底理解できないところまで私は潜り込んでしまったと思う。誰か、だれか私のこの思考を止めてくれないと、どうしようもない。

私は死ぬのを躊躇えない。誰か、だれか躊躇わさせて、早く死にたいのはもともとだった。それを止める私がずっとそこにいたのに、その私が疲れ果てて、働くのをやめてしまっていく。ボイコットして私の脳からいなくなってしまう。その時また私は死ぬのを躊躇わなくなる。ボイコットはしたことがないが、働かせすぎてオーバーヒートさせてしまったことはある。どうしていいかわからない。

当たり前のように病院に電話して、予約して、先生にそれらしいことを言って、薬をもらって、すぐに全部飲み干せばいいじゃなか、それで楽になるのなら、別に死にたいわけでもない、思考を止めたいだけなんだから、飲み干して、また眠ればいいじゃないかと思う。どこで飲もう。マツキヨで薬をもらって、なんなら明日は仕事を休んで、予約を無理やり入れてもらって、お母さんには内緒で、仕事に行ったということにして、どこで飲もう、一度梅田で飲み過ぎて3時間ほどベンチで爆睡してたことがある。

私は一人だ。一人で生きる。だから一人で死ねばいい。私が生きる価値のない人間だということはもう重々わかって、考察しつくした。もうそこに余儀はない。何もない。それしかない。それ以外に何もない。

私はどうしていいのかわからない。理性が私を殺そうとしているのか、本能的に私は死にたいのか、そして理性がそれを止めているのか、生の本能が止めているのかわからない。私の中の私は分割してしまっていて、生きたい私は居なくて、死にたい私と、命のさだめから 生きて子孫を残さねばという私と、それは道義に反する、という惰性的な私が居る。

どうしていいかわからない、どうしても、どうしてもわからない。どうしてもわからない。どこにいけばいいか、というよりどこで死ねばいいかを考えている。

楽になれることばかり考えている。私は私の中の私を殺せば早く死ねる。どうやったら殺せるかわからない。いや簡単だ、これ以上、もっと、更に考えればいい。核にある私が生きる理由や生きたい意味を問いただし続ければ、私は疲れ果ててついに その門を破られる。はやくしにたい。私の中でそれだけになってしまったら、いやそれだけになってしまってる。どうしていいか、どうしようかわからない。誰かに助けを求めたらいいのか、でもうまく助けを求められない。もういいじゃないか、その労力より私を殺す方が簡単だ。