麻美ゆまの白タイツらしきカメラ目線のavを恐らく五年以上ぶりに見つけた。

胸を揉むごとに漏れた虚偽の声色は、母親がクリスマスの後日になんかプレゼントが置いてあるよと私を起こした時の声色と、どうしてだか似ているような気がした。

皮肉にも私が鼻で笑った瞬間に場面は進みカメラワークは変わった。美しく毛穴一つ感じさせないシルクのような肌。すぅっと高い鼻筋と嫌味のない笑顔は、私の脳裏に焼き付いていた。あぁ、これを観たんだ。あの頃の私は。父のパソコンであっただろうか。今はもう死んでしまったあの水色が印象的であった動画サイトで見たんだったろうか。ゆるりと記憶が海馬から這い出してくるようだ。私は自慰誘発装置をみているという意識を失い、まるで単調な子供時代を辿る、スタンドバイミーを見ているような気分で満たされた。 そうだ、せめて読み返して読める文章を書いておこうと何故かそこから淡く緩みきった決心が生まれた。

しにたいとかマイナス思考なのは恐らく永遠に変わらないだろうから、ならばそれを前提とした記録でいいだろう。私は割り切って来たのだろうか。パニック障害と自覚しておおよそ2年、しかしこれが他人より不幸な理由になるとは思わない。しかし幸不幸を比較して相対的に見るのは野暮でとても最良な合理性だとは思わない。だから少なくとも日々を漠然と過ごす浅慮な、他人の不幸など気付きもしないような馬鹿と比べたら不幸だと言うことで十分な気がしてきた。

毎日が普通に過ごせない。薬を飲んでいるということそのものへの絶望、飲まなければやってられないような自分の心身への嫌悪、折角育ててくれた親への申し訳なさ、学年や学力という意味でなく同年代の人間と同レベルの強さがない、横に並べていないのだという虚しさ、ドーピングのような悪質な優越性を持ってしまっているのではないかという後ろめたさを感じながら、夕食後にいつもパキリと薬を飲む。文字化することである程度ポエミックになり嘘松風になり自己陶酔に陥ってるように見えるが、事実ありのままそう感じて生きてる。私を知ってくれてる人ならたぶん ああそうか で納得してくれる気がする。してほしい。

パニック障害はとくに珍しい病気でもなんでもないから自分が特異だとは思わない。ただこの地点から、この足が着いてる地点から見渡す限りはほんのり生きにくいステータスだ。今は非常に良好な状態だが生きにくいときは本当に生きにくい病気だと思う。いつか簡単な漫画にまとめて、誰かに発信してみたい。これは何がそうさせるのだろうと またドッペルゲンガーのように無限ループの客観視をしながら考える。まあ認証欲求でもなんでもいい。欲求があるだけ素晴らしいことだと思う。

辛いこともあるが母がある程度理解していてくれて、大丈夫と声を掛けてくれる友達がいることに最近気がつけた。幸せ者だなぁと久々に感じた。大人になるに連れてたくさんたくさんの失敗経験を積む。その中で自分が人生の、世界の主人公ではないのだと、心底から願えば世界はそれ通りになるのではないと、不幸に堕ちていくならば果てはないのだとうすらぼんやりと悟っていく。衣服の背中にじわじわと水が滲んでいくように、身体全体にその冷たさが伝わっていく。だからこそ、周りの人間が本当に心ある無謀で身勝手で予測出来ない、しかし成る程おもしろい個のある存在なのだと気づく。それでも自分の近くで浮遊してくれる、停滞してくれる、立ち止まってくれるような存在がいると気が付けたなら、幸せ者だなぁと感じられるのかなと思う。母は失敗経験が最近まで全くなかったようなので あぁ凄いなぁと思ったけれど。

私は何が欲しいだろうか。自己を肯定する気持ちが欲しい。他人からの承認、思慕、肯定というよりもそれを受け取れるだけの器を作っておきたいかもしれない。

いんたぁんに就活、説明会。もしかしてそろそろ急がねばならないのだろうか。急ぎは禁物だとあぐらをかくのは甘えなのだろうか。就活に婚活、妊活、子育て、終活、急かされるように人生が終わっていくのだなぁと分かった。私は変わらない。一度変わったがこれ以降は変わりそうもない。中学までの頃の私は割と別人だと思う。今日はあまり沈まない、たぶん麻美ゆまのおかげだろうなぁ。気が向いたら歌も聞いてみたいと思う。しにたいわけではないけれど、人生を少し停止したい。ほんの少しだけつかれた。私は燃費が悪い。

明日は病院。